一日違いの誕生日

「誕生日、私と一日違いじゃない!」と言われたことが、今のところ人生で二度ある。

 

最初は半年留年し「一人だけの卒業式」をすることになった日。学長はおらず、学長代理をされていた先生が、卒業証書に書かれた私の生年月日を見てそう言った。彼女は林家ペー・パー子夫妻のように周囲の誕生日をよく覚えている人として学内で有名だった。私は一度も彼女の授業を受けたことがないので誕生日について話す機会が無かったが、最後の最後で誕生日を認識してもらった。

私が結婚し子どもを授かってつわりに苦しんでいた頃、彼女が亡くなったというしらせが届いた。葬儀に参列するには体調が悪すぎるが、ちょうど通院で出かけねばならないところだった。交通機関の窓から葬儀会場の寺院がみえる。私は目を閉じてお祈りした。

そして月日は流れ、私の子どもはその葬儀会場寺院の敷地内にある幼稚園に入ることになった。偶然のような必然のような、不思議な縁だ。

 

もう一人、誕生日が一日違いだったのはあるバーの主人だった。飲み会で知り合った男性が連れて行ってくれた店。男性は仕事の関係者とここに来るようだった。主人は「あら〇〇ちゃん久しぶりじゃない!仕事忙しいの?」彼に声をかけ、親しげな様子がうかがえた。

バーの主人は私も知っている人だった。なぜならテレビ出演をしている人だったから。すこしミーハーな気持ちでワクワクした。「もっとテレビで、自分らしいポジションを確立したい」とその人は言っていた。「毒舌とかそっち系のジャンルはどうですか?」と聞いたら「わたし、オカマでもそういうのは疲れるのよね」との返事。私は「みんながみんなそういう毒舌でズバズバした物言いをするわけではない」ということに気づき、自らを恥じた。まだLGBTという言葉が世に出てきていない頃の話だ。

「私はいつか映画を作りたいの。もし、それが実現したら、〇〇ちゃん、あなたに監督をやってほしい。お願い」とバーの主人は言った。私を連れてきた男性はうなずいた。彼は初対面のときから映画が好きだと言い、私はその思いを聞いていた。彼らのやり取りは酒席の戯言だったかもしれない。けれど、どんな仕事をしていようとも心の中に仕事とはまた別の夢や情熱があって、実現してもしなくてもその小さい火はずっと揺れてる。「いやー、もう映画への夢は昔のことですから」と断ることもできただろうが、彼は断らなかった。

その男性とはいつのまにか会う機会もなくなった。連絡を取っていた最後のころ「誕生日おめでとう」とメッセージを貰った。誕生日をおぼえてもらっていたことの嬉しさ、そして誕生日が一日違いの人とのあのひとときを思い、懐かしさが胸を通り過ぎた。もう何年も経ったが、あの人たちの映画作りはおそらく実現していない。でもなんとなく思う、人生とは映画のようなものだと。胸に残る夢を感じながら生きることは充分に映画のようであると。彼らはきっとそれをどこかで感じながら今も日々過ごしているはずだ。

 

「一日違いの誕生日」にはいつも二人のことを思い出している。きっとこれからも。

図書館の本

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街の中に出たついでに、本を借りてきた。夫は休日出勤。子どもは「えー!?」とガッカリした様子だったが、あなたにオススメの本を予約してあるから、というと喜んで同行してくれた。

『僕はコーヒーがのめない』は某ご友人に教わった本。近頃コーヒー沼にハマりつつある私の基礎知識習得にちょうど良さそう。漫画はあらゆるジャンルで入門書として有効だよね。帰りのバスの中で少し読み進めたが、とても良い感じである。

写真一番左の本は子ども向け。こちらも別の方からご紹介いただいた。昔からある本だが、私は知らなかった。名探偵シリーズ、という人気シリーズらしい。案の定子どもが夢中で読み終えた。

あとは能町みね子さんに関する本。『お家賃ですけど』『オカマだけどOLやってます。完全版』『雑誌の人格』は持っているけど、あとは未チェックだった。きっと読んで気にいるものがあれば購入することになるだろう。ここにはないけど、『逃北』は買うことになりそう、という予感がある。

本が袋に入っているのは「借りた本って汚いから家にそのまま置かないで」とかつて言っていた夫のためである。しかし、私が通信制大学在学時に図書館をハードに利用するのを見て、最近は夫も利用するようになった。すると、割と借りた本が家の中に剥き出しで置かれるようになっている!私はそれを見逃していないぞ。けれど、図書館利用の仲間が増えて嬉しい。なので何も言わずそのままにしている。

今日はごく普通の日記になってしまった。そんな日もあるね。

父の霊媒

昨日の小林麻央さん死去のニュース、それなりにショックな気持ちで受け止めた。友達と「お互い長生きしよう」「定期的に検査をしなきゃ」なんて話したり。

今までメディアで見てきた人の死、それも若い人だとよりセンセーショナルだ。闘病の苦しみ、支える家族の負担、幼い子どもを残して旅立つ悲しみ。ついもらい泣きしてしまいそうになる。メディアでその報に触れておいて今更だけど、そっとしておいてあげたくもなる。実際Twitterでは早々に家に駆けつける取材陣に苦言を呈するものを多く見かけた。

私は同じく「突然の病で父を亡くした幼い子ども」の経験があるから、お子さんたちの姿を自分に重ねて見てしまったりもする。大人の同情や涙の材料にされたときに湧き上がるあの気持ち。あのお子さんたちもこの先それを感じるだろうか。どうか強く生きていってほしい。

 

自分のあまり記憶にない父を、人が語り、まだ若かったのにと涙し、生前の功績を語る。だけど私は父のことを少ししか知らない。その人たちの方が父のことに詳しい。でも父というのは血縁的に一番自分に近い、不思議な存在。

人々が自分に父のことを語りかけるそのとき、自分はまるで僧職や霊媒のように、どこか異界との繋がりを担当しているような気持ちになる。その人たちのために生きる必要性はないと、私は私の人生を生きればいいと理論的にはよく分かっている。しかし、語りかけてくる人々は私を見ていない。私を通して父を見ているのだ。「あの頃のお父さんはこんなことをしていた」などと涙ながらに語りながら。

もし私が父の立場なら、そんなことは思わずに自由になれと言うだろう。だが、泣きながら手を握ってくる人を突き放すことはできない。

 

職務中の父を良く知る人に、数年前にお会いした。「もう歳をとったし病気もしたから、これが最後かもしれない」と、はるばる遠い土地からご夫婦で父の墓参りに来てくださったのだ。父亡き後も節目節目でよくお会いし「おじさん、おばさん」と呼んでいたので、父よりもそのご夫婦や子どもたちの方が記憶にある。

夜中まで親たちは懐かしい話に花を咲かせていた。私は子どもを寝かせ、洗い物などの後片付けをしていたところ。いい感じに酔っ払ったおじさんがやってきて私に語り始めた。

「君のお父さんはね、本当に立派な人だったんだよ」

いきなりのことで、私は何となく照れたし、リアクションにも困った。

「いやあ、でも神経質だし、変わり者だったってよく祖母が言ってますよ〜」でも、仕事に生きて死んでいったのを尊敬してます、とは恥ずかしくて言えなかった。

「本当に立派な人だった、それは絶対忘れないで」

おじさんの目は本気だった。このときは酔っていなかった。私はそのおじさんの言葉を信じることにした。このおじさんは、私の向こうにいる父を見ていない、ちゃんと私を見て話していると伝わった。

筆記体の練習

そのとき通っていた学校は小高い丘の上にあった。登校するのは山登りと同じで、五月あたりから徐々に暑さが増し、朝は汗をぬぐいながら歩く。その横をタクシーが通り過ぎる。「わー、〇〇先生タクシーで来たよ」「ずるいずるい」「私たちも乗せて」山登りで疲れていながらも、若い学生にはそうやって騒ぐ元気がまだ残っていた。

英語を学ぶために入学したその学校は、他の学校に比べ圧倒的に学費が安かった。偏差値や進路実績も悪くなく、それが「一刻も早く自立したい」と考える私にちょうどよかった。四年制大学に通うものと思って生きてきた私はほとんど準備をせぬまま推薦入試で合格。バイト三昧の春休みを過ごし入学したところで、それが失敗だったことに気づく。他の学生はみんな「英語の発音が完璧」だったのだ。私は学年で六つに分かれるクラス編成の中で下から二番目に振り分けられた。

ある日、英作文の授業後にノートを先生に提出することになった。翌週の授業後、担当のおばあさん先生はため息まじりにこう言った。「あなたがた、筆記体というものをご存知でないの?」

ああ、筆記体。中学入学時の「初めての英語」で習いましたねぇ。英語用の罫線のついたノートに一生懸命書いた記憶がありますよ。「あのときだけだよね」「普段使わないよね」と学生たちがざわざわしていると、おばあさん先生は厳しい顔で「英語の道に進んでおいて、筆記体を使わないなんてナンセンスです!さあ、今日はみなさん筆記体の練習ですよ」

まさか今更アルファベットを書き綴る練習をすることになろうとは。小文字と大文字、それぞれをノートに書いていく。席を見回っていたおばあさん先生が、私の横で止まった。「なんですかそのAは!こんなAは正式なものではありません!」

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いや、このAはネイティブスピーカーが書いてたAなんですよ、私はこれで育ったんですよ、これで。「違います!いいから正しいものを書きなさい」

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筆記体は単純に続け字になれば良いというものではないらしい。日本で「行書」があるように、英語も筆記体という文化があるのだろう。カリグラフィーという言葉だって存在する。文化は違えど、追求する部分は共通していて面白い。

小規模な学校だったものだから、おばあさん先生はあらゆる科目を受け持っていた。私はこのおばあさん先生が気に入り、この人のゼミに入ることにした。研究内容よりも人で選んだのだ。私が卒業を半年延期し一人だけの卒業式を行った時も来てくれた。「やっと卒業ですね」とため息をつかれながらも。

学校を卒業してから筆記体を使う機会は無くなった。署名の時だけは使ってみようかな、と思いながらもそんな署名をすることはなかなか無かった。しかし、一度だけあったのだ。それは自分が結婚するとき。「結婚証明書」にサインをする瞬間だった。教会で用意されていたのは英語の証明書。神父様はもう英語でサインをしている。夫はどうするのだろうか?と思い見ていると、緊張からなのか全て大文字でサインしていた。もちろん筆記体ではなくブロック体。しょうがない、証明書にサインするくだりは練習していないし打ち合わせにも無かったのだから。私も緊張しながら筆記体でサインをする。あっ!

大文字のAを正しくないものにしてしまった。きっとあのおばあさん先生が見たら「正しくありません!」と言うだろう。まあしょうがない、私はこれで生きてきたんだ。これからもおそらく直ることはないだろう。

 

字を書くということ

昨日の流れで、父方の祖母のことを考えていた。祖父亡き後も祖母は限界集落の果てのような場所で独り生活している。高齢だが草刈機をブン回し、電動車で何処へでも出かけるパワフルなおばあさんになった。

そんな祖母も三、四十年前は曽祖父母の介護をしていたのだが、その頃からずっと習字をしている。通信教育で添削してもらうから教室に出かけなくても良いと言っていた。賞をとったものは額に入れたり掛け軸にして家に飾られている。習字は介護や農業・家事の合間の、自分自身と向き合える充実した時間だったのだろう。

そういえば私の周りやお友達も習字(書道)をしている人が多い。婚家にもたくさんの書道本があるし、書展に出展の際は見に行くこともある。あまり訳も分からず「すごいなあ」と思うだけで過ごしてきたけれど、今になって自分もやってみたくなってきた。私は学校の硬筆コンクールや書道の授業でしか経験がない。近年は「この一冊で美文字になる!」というようなペン習字の本で、お礼状や冠婚葬祭のときに練習する程度だ。

そして我が子にもちょうど良いのではないか。まだ習ったことのない字……例えば「太田胃散」という字を書き恍惚としている我が子を思うと、正しい書き順で美しい字を書く練習をするのは合っているような気がする。子ども向けに市販のひらがな・漢字ドリルもあるけれど、美しさを追求するものとはまた違う。

もう子どもの音楽教室に通っているからこれ以上の習い事は増やしたくない。よって通信教育に的を絞る。というわけで「日本習字」や「パイロット」のペン字をチェックしていた。リーズナブルだけど挫折しそうだなと思いつつも、通信で大学卒業できたから大丈夫だろう、という妙な自信が湧く。まずは放送大学の試験が終わってからの話だけれど、これからも息抜きにチェックしていこう。

書道をはじめとする「道」の付くもの(花道、茶道……等)は、師範が居てそこに弟子入りするような大掛かりなことであろう。そして年齢に関係なく生涯学ぶ姿勢を保つ。自分と向き合う時間、自身を律する心、それは生活にメリハリを与える。そんな「道」の素晴らしさに今あらためて気付いた次第だ。

あの家の子ども

電車に乗っていると親から電話がかかってきた。iPhoneに表示される「現在電話に出られません」のボタンを押し、さらに親の携帯メールアドレス宛に「電車に乗っていますので用事があればメールでお願いします」と送る。すぐに返事が返ってきた。「おばあさんの認知症が進んでいます。また連絡します」どうやら暇つぶしと愚痴の電話だったようだ。

子どもが学校から戻っておやつを食べているタイミングで再度親から電話がかかってきた。挨拶も早々に、待ちきれないとばかりに話し始めた。

「おばあさんが昨日の夜中、使用前の紙おむつを食べて喉がつまりそうになってた」
「それはだいぶ進んだね。早く施設に入れればいいのに」
しかし親は祖母の介護をすることで収入を得ている。祖母の介護のために仕事を辞めて十年が経過していた。施設に入れば収入もなくなるし頑張って介護する、というのが親の一応の介護理由だった。

「施設に入りたくても申し込んで一年以上待たないといけないのよ」
「だからもっと前から、早く申し込めって言ってたじゃん。昔から『私は施設に入ろうか悩んでいる。身体障害者だからいつでも入れるのにお前たちのために入らずにいる』って私を脅していたのにね、本当は自分が寂しくて入りたくないだけだったのにね」
「もうそんなこといいじゃない、あの人は若い頃から病気でかわいそうな人なんだから……」
親は「ダメ男をかばう女」のような口ぶりをした。実際ダメ男ポジションである祖母が私をいじめても、親はそれを祖母の背後で見ていた。止めもせずに。

 

「家にずっと子どもがいるというだけで体がしんどい」という祖母の主張で、幼い頃の長期休暇はずっと父の実家に住んでいた。夏休み中にある水泳大会の練習で登校しなければならない時期も、親が手続きし許可証が発行され、父実家の校区にある小学校のプールで泳いでいた。

父実家には父方の祖父母が住んでいた。農業で細々と暮らす夫婦の家。昼は農作業で出かけているので、私ときょうだいは普段味わえない自由な日々を謳歌していた。いつもなら朝から掃除洗濯草取り、と労働の日々なのだ。お茶の時間に祖父母が帰ってくる。縁側に折りたたみテーブルを持って行きお菓子とお茶を並べるのが楽しみだった。

ある日、会話の中で「そういえばうちの家にあるあの〇〇がさ…」と私が話した。「うちの家」とは、父の実家ではなく普段住んでいる家のことを指していた。祖父がしみじみと「あの家の子になってしまったのう」と言った。私はそんなことないよ、と慌てた。ずっと父実家の名字のままで過ごしていたし、あの家の子どもだと思ったことはない。たまたま「うち」があの家だっただけ。

だけど祖父母の家に永住はできなかった。祖父母の収入だけで私を養えるとは思えなかった。そして祖父母たちも三日位で徐々に私たちに飽きてくる。家族というのは、多少縛られ離れられなくなっている方が成立するのかもしれない。血縁はその縛りのひとつだろうか。振り返りながらそんなことを考えた。

 

児童文学と「死」

昨日『カレンダー』『お引越し』に関することを検索しているうちに、『お引越し』と同じく相米慎二監督によって映画化された児童文学のことを思い出した。『夏の庭 The Friends』だ。

夏の庭―The Friends (新潮文庫)

夏の庭―The Friends (新潮文庫)

 

これも私は読んでいた。三人の小学生が「おじいさんが死ぬのを見届けよう」とする話。世代を超えた出会い・会話、という点で『カレンダー』にも似ている。なんと映画版でそのおじいさんを演じているのは三國連太郎なのだ。あのスーさんが*1!これも本・映画ともに良かった記憶がある。年の離れた親戚の少年にプレゼントしたこともあった*2

児童文学だけど大人が読んでも面白い、という作品は多い。『夏の庭』は書店でもよく見かけた。ここ数年のもので言ったら『カラフル』も有名だろう。

カラフル (文春文庫)

カラフル (文春文庫)

 

ここ数年、と思っていたが文庫化は十年前なのか…。こちらも『夏の庭』と同様「死」というキーワードが出てくる。 子どもたちにとって、死というのは得体の知れぬ恐ろしいもの。「死」について考えることも多いだろう。これら本がその一助になると思うと心強い。

私も子どもの頃、夜眠る前は特に「死」について考え、そのたびに恐ろしい波紋のようなモヤモヤした「何か」が胸にひろがるのを恐れていた。考えたくないのに考えてしまうのだ。大人になればそんなことを考えている暇もないし、心も図太くなっているのだが。だからこそ子どもには死についてきちんと考える機会や、考え疲れた心を癒す時間が必要なのかもしれない。子どもは大人よりも哲学者なのではないか……そんなことを思ってみる。

*1:我が家では『釣りバカ日誌』にハマりすぎてDVDセットを買うべきか真剣に討議されたほどである。釣りバカに出演する人がメディアに出るたびに作品を振り返り大喜びしている。

*2:同様に石田衣良の『4TEEN』もプレゼントしたが、これのリアクションは薄かった。私は好きなんだけどな。