文化的生活の記録

「旅文学」の小さな本を作り始めました。

フルーツサンドの思い出

春休みにお出かけの約束をした私たち親子と友人親子。このような会合は、最近外国風にプレイデートと呼ばれるらしい。あるイベントに参加し、いつもと違う公園へ。自宅付近では桜の気配が薄かったのに、市内中心部だからか満開に近い。公園内に入るなり”解き放たれた”子どもたちは一目散に桜の樹の下へ。落ちた花びらを片っ端から収集し始めた。それをゆっくりと追う友人。前日までどんよりとした天候であったがこの日は快晴、完全に春の景色だ。

ベンチに腰をかけた友人が「この辺りにフルーツサンドのお店あるの知ってる?」と言い出した。ああ、あの有名な。「あのお店はフルーツは上等だけどクリームと食パンが残念なんだよね」「あのジューススタンドもフルーツサンドやってるんだよ」と最新情報を聞いているうちに、何も言わずしてお互いに「そろそろおやつだな、フルーツサンドだな」という意識に傾いているのがわかった。春の陽気がさらにそうさせている気がする。

スマホでちゃちゃっと検索した友人が電話をしてくれた。「○時半に売り切れちゃってますかー、はい、また早めに行きますー」○時半って開店直後じゃないか。思いのほか早くに売り切れるんだねぇ、残念だねえ。そこで友人が突然の提案。「ねえ、このあとウチに来ない?私フルーツサンド作る」え?フルーツサンドって作るものなの?

思えば私はフルーツサンドを作ったことがない。売っているのは見たことがあるが食べたことがない。ヤマザキまるごとバナナはフルーツサンドに入りますか先生。どことなく自分には敷居が高い別次元のもののように感じていた。もしかしてそれは、単純に食べたことがなかったからだろうか?

子どもたちは「おやつ」「まだ一緒に遊べる」とあって喜んで移動に賛同した。途中スーパーに立ち寄り、友人がフルーツサンドの材料を選んでいる間に私は手土産のお菓子類を購入。そのあと家にお邪魔し子どもたちがひと遊びしているあいだに、友人はあっという間にフルーツサンドを作り上げてしまった。クイジナートのハンドブレンダーで生クリームを攪拌して。少し固め冷やしている時間には、昔流行った音楽の話などをして。

15時、ちょうどおやつの時間に並べられたフルーツサンド。いちごとバナナが対に並べられている。ひとくち食べると、フルーツと生クリームそれぞれの甘みが口に広がる。それを食パンのほのかな塩分が引き立ててくれる。うん、美味しい!「いや、家で作ったのだからね?」と友人は言うが、それにしても生クリームが美味しい。有名なハンドブレンダーで攪拌したから?いや、バターのような、コクがあるけどクドくない何かが入っているはず。これ普通の生クリームじゃないでしょ?さっき買ったの?と更に問うと、友人は「スーパーの棚にあった生クリームのなかで、一番高級なのには、したわ」と笑った。やはり生クリームと食パンは重要だね、あの店は一番安いのを使ってるのかもしれないね、と盛り上がる。

「でもこれさ、ケーキ作るより簡単だから」と友人に言われ、よく考えればそうだなと思った。ちょっと特別な日、たとえば週末の朝、こんな来客の日、さっと作るのにいいかもしれない。もっと早く気づけばよかった。

そこでやっと思い出した。フルーツサンドといえばあの物語。よしもとばなな『デッドエンドの思い出』。独身時代からずっと、マイベストとしている本である。 

デッドエンドの思い出 (文春文庫)

デッドエンドの思い出 (文春文庫)

 

これはよしもとばななが妊娠中に執筆した短編集。最後に載せられた表題作には、しあわせに育てられた女の子の失恋と再生が描かれている。その女の子の家族が切り盛りしていたのがフルーツサンドのお店だった。フルーツサンドのお店というだけでどこか遠い国の話のような縁遠さを感じていたのは、物語の中に出てきていたからかもしれない。それも、しあわせな家族の象徴として。

そして今、あの本を初めて読んだ独身時代からはるかに年月が経過し、私は自分の家族を持った。フルーツサンドの敷居も低くなった。次の週末の朝はみんなでフルーツサンドにしようか。ひとくちサイズにしたり子どもと作るのもいいかもしれない。ロール状にしてキャンディ型にラッピングしようか?それじゃあやっぱりヤマザキまるごとバナナみたいかな?でもいいかもしれない、それが私の家族らしくて。そんな思い出が残っていけばいい。