文化的生活の記録

「旅文学」の小さな本を作り始めました。

スポーツがくれる「無」の時間

自分の過去を知る人と話をしていると「小学生のころ水泳速かったね、いつも一番だったね」「スキー上手だったね」と言ってもらえることが多い。残念ながら過疎化が進む小さな町での話なので都道府県レベルで見ると大した記録ではない。しかし、球技や団体競技が苦手な私にとって、個人競技で自分と向き合うのは何よりも落ち着く時間。結果はあくまで副産物に過ぎなかった。

水泳に関しては、最初は息が出来ないという恐ろしさばかりが気になっていたが、背泳に出会って大好きになった。背泳は息継ぎをしなくていい。苦手な飛び込みもしなくていい。こんな最高な泳ぎ、クロールや平泳ぎの前に教わりたかった、と思ったほどだ。

しかし初めて仰向けで水面に浮くのは子供にとってなかなか勇気がいる。沈んでしまうのではという恐怖が先に立つ。放課後、そんな私に他のクラスの先生がわざわざ指導に来てくれた。「背中を持ってるから安心して。ボーッとしてみよう。じゃあ、今日の給食のメニューを思い出そうか」給食ですか?えーっと、パンと……。思い浮かべているうちに先生の声が聞こえた。「もう浮いているよ!」え?もう出来たの?

目線の先には雲と青空。初めて自転車に乗れたときと同じ感じ。プールを見つめて泳ぐより、空を見つめた方がずっと楽しい。流れる雲の動きと同じように自分もほんの少しずつ動いているのがわかる。以後私は背泳を専門に小学校の夏を過ごした。

進学した中学では水泳部がなかったため水泳生活はそこで終わったが、プールや海に遊びに行くことがあればたいてい背泳をしている。疲れたらそのまま浮いて空や天井を見て、今日のご飯のことを考えている。そこは誰にも邪魔されない私だけの時間だ。産後は体型によりプールに行く勇気がないのが今の悩みどころである。

背泳と同じ気持ちを味わっていたのがスキーだった。土日は親が仕事で居らず、朝からお弁当と共にゲレンデに送り込まれていた。山へ行くと同じような友人が何人かいるので、連れ立って滑っていた。連れ立っているものの滑る瞬間は一人である。心の中で好きな歌をうたったり、考え事をするのに最適な時間だった。子供が吹き飛ばされてしまいそうな吹雪の日もあったが、この時間が好きだったから苦ではなかった。

水泳にもスキーにも共通するのは「無」だな、と思う。外部の無駄な音が遮断されたような自分の空間の中で、ひたすら何かの作業(動き)に集中しながらも、頭の中を整理するような。ジムのランニングマシンで走るのにも似ているけど、若干他者と近すぎる気がする。むしろ外のジョギングに似ているかもしれない。景色を眺めながらも自らに向き合う感じが。「無」だけでなく、水・山・景色といった「自然」と関わっているのもポイントかもしれない。いずれも人工的な場所でありながらも自然なものに触れることが出来る。そこから「無」が生まれるのかもしれない。

スポーツのことを書きながらも、このブログを書く行為もそれらの「無」に少し似ていると思う。でもここにあるのはパソコンやスマホといった人工物。「自然」はどこだ?もしかしたら、書き綴る自分の暮らしが「自然」なんだろうか。人々の暮らしや営みは「自然」と同じ?確証は無いけれど、なんとなくそんなことを考えた。