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私はかわいそうな子どもではない

このブログの記事は、過去と現在の二種類の話があり、過去と現在を行ったり来たりするように記述している。私はずいぶんと過去の自分に固執しているのだな、と思う。でもみんなそうだろう。過去からの教訓があって現在があるのだから。

「私はかわいそうな子どもではない」というタイトルの作文を書いたことがある。正確には「そのような文章を書くように指示されたから書いた」ものである。

多くの学校がそうだと思うが、小学生の頃は毎年読書感想文を書かされていた。書くにあたり、まずどんな本を読むかを考えるのが楽しみであった。今年は犬にしよう、この表紙の犬の絵かわいい。と思いながら本を手にすると、担任に止められた。「あなたはこれを読みなさいと言ったでしょう?」。

手渡されたのは片方の親を亡くした主人公の話。「登場人物と自分の共通点を見出し、その気持ちをよみとる」という読書感想文のセオリーに乗っかるセレクト。私はその担任に一度この本を読むように言われていたのだが、サッと目を通し敢えて止めたのだった。だが担任はそれを許さなかった。

本を読み、それらしい作文を書き提出すると今度は担任の添削が始まった。ここは弱い、タイトルはもっとインパクトのあるものにしなくてはいけない……私の片親ストーリーはドラマチックに変化していく。担任は私の作文をコンクールに出すつもりなのだ。「どうして書けないの?こういうときあなたはどう思うの?」担任の要望通りの答えを探す旅。何度も居残りをして作文は完成した。私の決めたタイトルが気に食わなかった担任は、提出後にそれを消しゴムで消し、私の筆跡を真似て書き直したそうだ。「私はかわいそうな子どもではない」と。

先生、確かに私はかわいそうな子どもではありません。確かに片親で育ちましたが、それで困ったことはありません。強いて言えば家庭内で孤立していた程度でしょうか。それは片親であることとは関係なく、私の性格の都合です。周りの子どもや社会に、片親だからといって何か言われたということもありません。それともこんな冷酷な気持ちをもった子どもはかわいそうですか?それは片親が原因だということでしょうか?

でも、私にはわかりますよ。先生は私を身代わりに、ご自身の「片親コンプレックス」を打破したかったんですよね。かわいそうな子どもではない、と自分に言い聞かせたかったんですよね。先生、私がもしかわいそうな子どもであるならば、それはあなたに散々いじめられたことでしょうね。これ以外にもいろいろありました。従順でない私を先生はお嫌いだったでしょう?私もあなたが嫌いです。

コンクールの結果はあまり良いものではなく、それを告げる担任の顔は悔しさをにじませていた。それからもう、担任が私に本を強要することはなくなった。

しばらくして親族の葬儀に出た際、遠縁のおばさんに声をかけられた。「読んだよ、コンクールの作文」え?なんで?「あれ私が審査員だもの」。そのおばさんは教育関係の仕事についていたのだった。「すみません、なんか、あんなこと書く羽目になっちゃって」。謝らなくても良かったのだろうが、私はとっさに言い訳のような謝り方をした。恥ずかしさでおばさんの顔が見られない。「じゃあね」と言って、おばさんはあっさりと立ち去った。おばさんにはわかっていたのだろう、あの作文が私の意思で書かれたものではないことを。

それから長い月日が経って、私はここで私の文章を書いている。私はかわいそうな子どもではない。誰のものでもない、私の気持ちを綴っている。下手かもしれないけど、これは確実に私の文章だ。