ラテンダンスの日々

突如ラテンダンスを習おうと思ったのは、繁華街に出入りし始めて数ヶ月経った頃だったと思う。自分に足りない明るさのようなものを求めた。運動すればダイエットにもなる。ペアダンスともあれば男性との距離感の練習にもなるだろう。リズム感がないと言われた小学生時代の嫌な思い出もあったが、年齢を重ねるごとに「自分は決してリズム感がないわけではないのでは」と思い始めた。

ラテンミュージックは以前から好きだった。カラッと明るいけれど、根底に存在する暗さ・悲しさのようなものを感じ、共感した。どんな民族・社会であっても、人生には華もあれば苦しみもある。それを踏まえたうえで明るさとリズムが前面に出たその音楽に乗ってみようと思った。

私は仕事帰りに週一のレッスンを申し込んだ。カルチャーセンターのような場所で開催されるもので、私より少し年上の女性が講師をしていた。メンバーは若い女性、もしくは五十代以上のおじさま・おばさまたち。確かに、二十時台のレッスンに参加できるのはそのくらいの年代でないと難しいだろう。女性であれば育児期は当然外出できないだろうし、働き盛りの男性は週一のレッスンを確約できないだろうから。

本格的なダンススクールではないので全身を見る鏡はなく、陽が落ちて暗くなった窓ガラスに自分たちの姿を写す。先生が先頭で横一列に並び準備体操、そしてソロのダンスステップを確認。後半はペアダンスのレッスンをした。自分の動きを音楽に乗せるという初めての経験。思わず「わ、私踊ってる!」と笑みがこぼれる。これを先生は”なんとかスマイル”って呼んでいたけれど……肝心の”なんとか”の部分は忘れてしまった。ちゃんとリズムに乗れている、この喜び。

そのダンスを三年続けた。仕事でどうしようもなく悔しいことがあった日も、何となく面倒で教室まで行くのがダルいなと思う日も、いざダンスシューズを履くとやる気に満ち溢れる。動いているうちに心も躍り出す。頭の先から足、指の先までピンと伸ばし集中する。まるで道場での稽古のような感覚で、自分に向き合う時間。

一方、ペアダンスでは相手とのバランスの取り方を勉強した。ペアダンスは男性がリードし女性がそれにあわせる。自分がきちんと正しくリズムに乗っていても、リードする男性がズレた場合はそちらにあわせる必要があるのだ。「ほんとはそのリズムでいいんだけど、ちょっと男性を待ってみてね」と先生にいわれた時、なんとなくこのコツは恋愛にも通ずるな、と思った。私が男性よりも暴走しがちだった当時の記憶とダブらせてみる……。

続けたダンスを辞めたのは、同じ教室の男性にレッスン後あとをつけられたり、レッスン前に待ち伏せされたりして面倒になったからである。当時の彼氏(現在の夫)がレッスン後に迎えに来たのを目撃しても「彼氏がいるから安心して声かけられます!」と元気に言われて呆れ返った。なんというポジティブさ。私だけでなく他の女性も被害に遭っていた、と辞める日に先生が教えてくれた。

せっかく三年続けたダンス、もったいないなとは思ったが「辞めどき」もあるだろうと考えた。以後ダンスとは無縁の生活を送り十年近くになる。しかし、ダンスシューズだけは捨てられずに今も下駄箱に入っている。シューズ袋を開けていないのでカビているかもしれない。

あのシューズを履くことはなくても、お気に入りのラテンミュージックを聴きながらキッチンで洗い物をすると、ちょっと踊っているような気持ちになる。洗った皿を持った手首のスナップを効かせながら、いつもよりも腕を長くゆったりと伸ばしラックへ置くのだ。