父の霊媒

昨日の小林麻央さん死去のニュース、それなりにショックな気持ちで受け止めた。友達と「お互い長生きしよう」「定期的に検査をしなきゃ」なんて話したり。

今までメディアで見てきた人の死、それも若い人だとよりセンセーショナルだ。闘病の苦しみ、支える家族の負担、幼い子どもを残して旅立つ悲しみ。ついもらい泣きしてしまいそうになる。メディアでその報に触れておいて今更だけど、そっとしておいてあげたくもなる。実際Twitterでは早々に家に駆けつける取材陣に苦言を呈するものを多く見かけた。

私は同じく「突然の病で父を亡くした幼い子ども」の経験があるから、お子さんたちの姿を自分に重ねて見てしまったりもする。大人の同情や涙の材料にされたときに湧き上がるあの気持ち。あのお子さんたちもこの先それを感じるだろうか。どうか強く生きていってほしい。

 

自分のあまり記憶にない父を、人が語り、まだ若かったのにと涙し、生前の功績を語る。だけど私は父のことを少ししか知らない。その人たちの方が父のことに詳しい。でも父というのは血縁的に一番自分に近い、不思議な存在。

人々が自分に父のことを語りかけるそのとき、自分はまるで僧職や霊媒のように、どこか異界との繋がりを担当しているような気持ちになる。その人たちのために生きる必要性はないと、私は私の人生を生きればいいと理論的にはよく分かっている。しかし、語りかけてくる人々は私を見ていない。私を通して父を見ているのだ。「あの頃のお父さんはこんなことをしていた」などと涙ながらに語りながら。

もし私が父の立場なら、そんなことは思わずに自由になれと言うだろう。だが、泣きながら手を握ってくる人を突き放すことはできない。

 

職務中の父を良く知る人に、数年前にお会いした。「もう歳をとったし病気もしたから、これが最後かもしれない」と、はるばる遠い土地からご夫婦で父の墓参りに来てくださったのだ。父亡き後も節目節目でよくお会いし「おじさん、おばさん」と呼んでいたので、父よりもそのご夫婦や子どもたちの方が記憶にある。

夜中まで親たちは懐かしい話に花を咲かせていた。私は子どもを寝かせ、洗い物などの後片付けをしていたところ。いい感じに酔っ払ったおじさんがやってきて私に語り始めた。

「君のお父さんはね、本当に立派な人だったんだよ」

いきなりのことで、私は何となく照れたし、リアクションにも困った。

「いやあ、でも神経質だし、変わり者だったってよく祖母が言ってますよ〜」でも、仕事に生きて死んでいったのを尊敬してます、とは恥ずかしくて言えなかった。

「本当に立派な人だった、それは絶対忘れないで」

おじさんの目は本気だった。このときは酔っていなかった。私はそのおじさんの言葉を信じることにした。このおじさんは、私の向こうにいる父を見ていない、ちゃんと私を見て話していると伝わった。

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