文学の国籍

今日は記事を2つ更新。

昨夜の「カズオ・イシグロ氏、ノーベル文学賞受賞」のニュースは私もリアルタイムでTwitterを追った。『わたしを離さないで』は少しだけしか読んでいないので、私は読者とはいえないだろう。でも海外の文学に縁遠い私は存在を知っている人が受賞というだけで嬉しい気持ちになった。

カズオ・イシグロ氏といえば日本では「長崎生まれ」「日系英国人」であることが挙げられる。作品を読んだ人やレビューでは「カズオ・イシグロ氏の作品から日本を感じることはない」という意見も「日本的情緒を感じる」という意見も、どちらも見られた。日系人であることはもちろん自分のアイデンティティに少なからず影響するだろう。そしてどんな国籍であっても自分の触れた芸術、はたまた自然や風土といったものから影響を受けるのは当たり前だ。日本にずっといてもアメリカ文学が大好きな人もいる。どこから影響を受けても受けなくてもいいのではないだろうか。

私は今回「パール・バック」のことを思い出した。かつてノーベル文学賞を受賞した作家である。小学生のとき学校の図書室にあったボロボロの文庫本で『大地』を読んだ。この本は私にとっても非常に思い入れがある。貧しき主人公が徐々にのし上がって行き富を得て、本来持っていた大切なものを失ったり守ったりする話だ。ただ、私はこの作品をずっと「中国を取材した新聞記者みたいな欧米のおじさん」が書いた作品だと思い込んでいた。だって、登場人物から舞台から、すべてが中国だからである。

英語を専門とした学生の頃、アメリカ文学史のテキストを読んでパール・バックが出てきたとき私は椅子からひっくり返りそうになった。女の人じゃん!しかも中国に住んでた人なの?さらに、これってアメリカ文学なの?どう考えても中国文学でしょ。

系譜や研究の対象範囲として「アメリカ文学」や「日本文学」というくくりが必要なことはわかる。けれど文学に国籍はもはや関係なく「ひとりの人間から生まれた作品」と考えたほうが自然な気がする。その人という存在自体がひとつのジャンルなのだ。