最期は誰のため

「ありのままの最期」という番組の再放送を最後の3分間だけ見た。

NHKドキュメンタリー - ありのままの最期 末期がんの“看取(みと)り医師” 死までの450日

番組名やテロップ表示などから推測して、看取り医師として活動してきた人自身の末期ガンから死に至る過程を取材し放送したもののようだ。

私がそのチャンネルを点けた瞬間既にその医師は亡くなり、亡骸が思いっきり放送されていた。こんなに死が直接的に放送されるのを見るのは初めてだ。側に居る奥さんは僧侶なのかその後剃髪し袈裟を身にまとい葬儀へ。泣き崩れ火葬場に行けない状態が映し出されていた。看取り医師の亡骸が火葬され骨になった姿まできちんと流れて番組は終わった。

たった3分の鑑賞だったが、あれだけでなんとなく「ありのままの最期」は結果的に自身のありのまま・意思のままに行われず、残された人間のものとなっている様子を感じた。実際、葬儀など残された人間のケジメ、未練を断ち切るための儀式だ。

自分がこの目で見た部分ではないのでニュアンスや受け取り方の違いがあるかもしれないが、その後番組感想を検索したところ、最期の延命措置部分で本人ではなく奥様の意向が採用されていたとあった。こういうケースは実体験でもドラマでも見かける。

ありのままに生きるためには、死に様をはっきりと意思表示しておかねばならないのだと実感する。そして、ありのままに映し出されたその事実が、ありのままの彼自身の意思どおりに行われなかったということ。つまり自分にもその可能性があること。

病気で親御さんを看取った友達が「自分が死ぬ時はスパッと死にたい」と言った。そのとき私は心から同意した。残された者に負担をかけながらダラダラと生きることは本望ではない。「負担など感じないから生きていてほしい」と思う人もいるのかもしれないが、負担の期間が長引けば疲労は蓄積する。

もちろん、最期の日を後悔なく迎えるために、思いっきり後悔なく今を生きる。子どもが一人前に育つまでは死ねないよ。