プラタナス

桂の木の葉からキャラメルの香りがするという話を聞いた。キョロキョロ近所を見回すも、それらしい木がない。恐らくまだ私は桂の木に遭遇したことがないのだろう。早くどこかで出逢いたい。

日本の限界地域で育った私にとって、木は杉や松、竹、銀杏……といったものしか身近にない。初めて横文字の名のついた木に触れたのは地元を離れ進学した中学時代だった。それは学校の校舎から見えるプラタナスの木。下には白い洋風のベンチが置いてある。オンボロの木造校舎だったけれど、だからこそその景色はサナトリウムみたいに情緒があった。

「あのプラタナスいいね」と祖父に話すと、祖父は鼻に付けた酸素吸入のチューブを口に当てながら「あれまだあるのか」と言った。私が中学に入ってすぐの夏、祖父は遠くの街の大きな病院に入院した。親の机にあった『家庭の医学』の新しい付箋と書き込みで、祖父が末期のガンなのはこっそり知っていた。鼻のチューブを口に当てるくらいだから、そろそろ鼻と口全体を覆う酸素吸入器になる。

祖父は私と同じ中学の出身だ。祖父が居た頃は旧制中学で、やはりあのプラタナスの木があったという。それから当時は相撲の土俵もあったとのこと。その流れで祖父は大相撲の土俵の天井に下げられた色について教えてくれた。あれは白虎青龍朱雀玄武を表していると。それに土俵の角はちゃんと四つあるだろう、あれも同じだ、と。いつも祖父と大相撲や時代劇を見ていた団欒の時間を病室で味わうことができた。

病院はあまりにも遠かったからなかなか子どもは見舞いに行けず、次に会うときには祖父の病状が悪化し話すことができなかった。おじいちゃんがんばってね、と言いながら「がんばって」という言葉は間違っているような気もした。しかし他の言葉は何も思いつかなかった。死んだ父親がわりに面倒をみてくれた祖父も、こうやって死んでしまうのか。

その年の秋に祖父は死んだ。母親が看取って電話がかかったのが夜中だった。祖母に命じられ私は夜中から雑巾掛けをした。祖父の遺体の通り道、安置する仏間までを。雑巾の水は冷たかった。何時間かして運ばれてきた祖父も顔色が無かった。

そして私はそのまま登校し、全校朝礼中に貧血で倒れた。保健室のベッドに横になる前、窓の外のプラタナスが目に入った。葉が落ちて絨毯のようになっている。心配してくれた保健室の先生につい油断して「祖父が死んじゃって」と吐露してしまった。

そんなプラタナスの木は、もう母校には無い。いつのまにか伐採されてしまっていた。あの木のことを覚えている人がどれだけいるだろう。みんなが忘れてしまっても私は忘れないよ。