文化的生活の記録

「旅文学」の小さな本を作り始めました。

登山靴を買う/無駄を削ぎ落とす

週末はついに靴を買った。靴は靴でも登山の靴だ。試し履きの前に靴下を買った。お店にも試し履きの際の靴下は置いてあるが、どうせ必要なものだし他の人が履いているのを履くのも気が引けた(さらに言えば自分が履いたものを人に履かせてしまうのも)。

店員さんに初心者であること・低山メインで使うこと・足首を守りたいことを告げる。靴下で足のサイズをはかりながら、登山靴は1センチ大きい靴を履くのですよと教えてもらった。店員さんの見繕ってくれた靴を履いてみる。「最低でも二足履き比べないと意味がありません!」登山靴の選び方は知らないことばかりだ。

店内には山を模した模型のようなものがあり、靴でその上を歩き感覚を確かめる。やはり足首まである靴は下り坂での安定感が違う。これまで低山に三度登ったが、いずれも下りでの足首への負担が大きかった。

「意外と歩けてるので、もう一足はこれにしましょう」と取り出されたのはオールマイティーに使える靴。低山から富士山まで大丈夫と言われた。ふ、ふじさん!横にいた我が子は目を輝かせた。いや、まだ我々は富士山レベルじゃないから。行かないから。しかし富士山と言われると何となく丈夫な気がするから面白い。

富士山もイケる靴を履いてみると、何となく守られ度がアップした感触があった。包まれている素材の硬さというべきか。先ほどよりも重さも少しある。素人ゆえ「重い靴は難しいのでは」と考えていたが、重いゆえ保護感があるともいえるのか。

歩いた感触も程よく、先ほどより安定するので「子どもの手を引いて誘導する」シーンが多い私には向いていると判断し、富士山もイケる靴を購入した。子どもの靴も購入し、共に次の登山への構想を練りながら帰宅する。

登山グッズとして必要に迫られ登山靴を買ったけれど、それ以外のものはかなり熟考している。山グッズのカタログやサイト、雑誌を見ては欲しいものがアレコレ思い浮かぶけれど全てを買う財力も置き場もないし、そこまで一度に揃える必要性も感じない。

そうなると「いま何が必要なのか」ということをより真剣に考える。その作業に取り組みながら「これって文章を書くときに似ているな」と思う。今トライしている物語をどこまで肉付けするのか、どこまで削ぎ落とすのか。参考にと手にした文章書きに関する本にも似たようなことが書かれていた。結局のところ心に響くのは無闇に捏ねくり回さない子どものような素朴な表現や心の動きなのかもしれない。

そんなことを思っていると、美術作品を作っている友達も同じようなことを言っていた。彼女は最近、有名な美術家の洗練された思考やたどり着いた境地に深い感銘を受けていた。その話を聞くと、何かに向かうことや作品を作り出すための精神的な旅の深さに圧倒されるばかり。

人生において、まだまだ精神的な修行や学びの旅は終わらないと思う。山や文章を通して、修行修行の毎日だ。

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↑図書室で借りた本。