文化的生活の記録

「旅文学」の小さな本を作り始めました。

二次被害

数日前、簡潔に言うならばセクハラを目撃しそのことをずっと考えている。この件は「する側もされる側も問題視していない」ところがポイントで、私はずっと「本来どうすべきだったのか?」とモヤモヤとした心持ちでいた。

当事者間にトラブルが発生していないのであれば放置する案件だったのかもしれない。しかしビジネスに近いような公の場で行われていたため、私はセクハラした人に対し「ちょっと違うんじゃないですか」と意思表示した。それが正しかったのか余計なお世話だったのかはわからない。それにより場を乱しただろうか。

後日、セクハラした側の人がされた側の人に謝ったと聞いた。その際セクハラされた人はきっと「問題ないですよ、気にしないで」と言ったのではないかと推測する。その後SNSにその件(=セクハラされたこと)を容認したような投稿がなされていた。気にしているのは私だけだろうか。いや、セクハラに関して私以外にも違和感を唱える人はいた。しかしセクハラされた側のSNS投稿は、そのような考えに意を唱えるかのようだった(された側の本人にそんな意志はなかったかもしれないけど)。

セクハラされた側の気持ちについて考えてみる。「あまり外野にこの件をつついてほしくない」「本当に気にしていない」「(多少性的にとはいえ)自分に注目してくれて嬉しい」といったところだろうか。セクハラされた人は自己顕示欲が強い人だからセクハラにも耐性があるのかもしれない。

それは本当にセクハラだったのか、今一度自分に問いかける。ネットで同様の事例がないか調べてみる。これまた公の機関が出している例に似たものがあった。体に触ったり、猥雑な言葉や質問を投げかけることだけがセクハラではない。

そこでふと「消費」という言葉が頭に浮かんだ。他者に自分の性を消費されること。例えばグラビアアイドルの人なら、他者に自分の体型を鑑賞されたり露出の多い写真(集)を買われたりすることは問題ないだろう。むしろそれを目的とした活動をしている。活動もちゃんとそれにふさわしい場所(書店のイベントとか、撮影スタジオとか)で行われている。

もしそれが一般人によって行われていたら。これも本人たちさえ良ければいいのだろう。しかしそれが無関係の人もいるような公の場で行われていたらどうだろう。やっぱりそれは嫌だ。例えばカフェでお茶を飲みながらまったりと過ごしているときに、いきなり横でグラビア撮影会が始まったら「なんだこれは」と思う。ただの写真撮影なら判るけど、露出が激しかったら周囲はつらすぎる。今回のセクハラはそれに似た衝撃があった。

セクハラは当事者間の問題ばかりが浮き彫りになるけれど、目撃させられる側も十分にセクハラ二次被害を受けているのだろう。ここで問われるのが「公序良俗」というやつか。今回は「相手が傷ついていなくても、それはセクハラなのでは?」と指摘するのではなく「公の場でそういうのを目撃するのは非常に不快なのでやめてください」と言うべきだったかもしれない。