文化的生活の記録

「旅文学」の小さな本を作っています。

続けてきたものを辞めるとき

先日、子どもの習い事のひとつを辞めた。もちろん愛するピアノではなく、公民館的な場所で習っていた運動の習い事である。運動を習い始める前は時間に余裕がたっぷりあったのだが、しばらくしてピアノのレッスンが倍増・コンクールにも出場するようになったという流れもあり、運動をすることでの負担が大きくなっていた。それでも本人が今年度だけは頑張るというので日々励ましていたのだが、ここ数ヶ月は運動へのやる気がレッスンごとに減少していった。

普段子どもがレッスンの間、私は外で読書したりこのブログを書いていた。本人が恥ずかしがって「レッスン見ないでよ〜」などと言うし、私もピアノレッスンと違って気楽に考えていたので自由時間が出来たつもりで過ごしていた。廊下の椅子に腰をかけ本を読みながら、壁の向こうのレッスンの音を聞く。時折我が子が「いいよ!」と褒められたり「もっとこうしてみて」などと言われる様子を確認する。次のレッスン枠の子がやってきたら話をしたり、途中トイレに退室した子の様子をみてやったり。そんな、いつもと違う楽しさがあった。

しかしここ最近の我が子の落ち込みように、中に入ってレッスンを覗いてみることにした。入会以来のことだ。その入会当初は目を輝かせて動いていた我が子、今回は何だかグッタリし表情も暗い。他の子は先生の雑談にもドンドン入っていくが、我が子にはその様子もない(いつもはトーク大好き人間なのに!)。その帰り道は元気に行進するかのように歩いていたので健康状態が悪いというわけではない。本当に運動に気持ちが入らないのだろう。

レッスンのたびに「あー行きたくない」と言いながらウェアに着替えるのを見るのも「あなたがやりたいって言ったんでしょ」と毎度言うのにも疲れてしまった。そういえば我が子はまだ「習い事を辞める」という経験をしていない。ベビーヨガに通っていた時期はあるがそれは習い事とはまた違っていた。大好きな音楽はずっと昔から続けていて母娘共に辞めようと思ったことは微塵もなく、もはや生活の一部である。

これまで他のお友達が音楽をやめていく様子を何度か見たけれど、その時のお友達親子の心境が今はとてもよくわかる。続けてきたこと・好きだったことを辞めるのは物事からの逃げなのではないか?なんて考えてみたりもするが、子どもは辞めたいと言っている。子どもの限界はどこなのか、ガイドラインなんてないから分からないけど、多分これが辞めどきなのではないか?

そう決めたらもう、わずかに残っていた運動への熱意はバケツの水をぶっかけられた線香花火のようにジュっと小さな音を立てて消えてしまった。最後のレッスンは参加することなく、先生と皆さんにご挨拶をするだけにした。レッスンに参加し運動した後辞める挨拶…というのも何だか違う気がしたのだ。だってやりたくないのだから。子どもにそのことを伝えると、どこかホッとした顔をしていた。

「他の習い事との兼ね合いで」「体力的にも精神的にもいっぱいいっぱいで」「中途半端な時期に申し訳ありません」などと言いながらこれまでのお礼とお詫びを伝える。言いながら、これもまた社会勉強だよなと思った。辞める時期の見極め、そして心苦しさ(と少しの開放感)を、子どもはわかってくれただろうか?

お友達のお母さん方は「えー!急すぎる!ショック!」なんてリアクションだったところ、一人のお母さんが「最近元気なかったものね」と声をかけてくれた。そのお母さんはレッスン中に入室していることが多いせいもあるが、自分の子だけでなく色んな子の様子をしっかり見ている人なんだな、と思った。そのお母さんの言葉に少し救われた。

日が短くなり暗くなった帰り道を母子で歩く。運動を始めたのもだいたい2年前くらい、暗い道を一緒に歩いたことを思い出す。運動を辞めたその日から、我が子はその曜日のピアノ練習時間を30分増やすことにした。