文化的生活の記録

「旅文学」の小さな本を作っています。

嘘で綺麗に包まれて

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ブログを書いては何度も消した。今書いているこれもまた消すのだろうか。呆れと怒りに任せて書いた文章は醜い。

要は「うまいこと嘘で綺麗に包んで美化し発表されたものがある。それを見て人々が感動している。私はそれを見て『それ嘘ですよ』と言いたい気持ちをグッとおさえている」という状況である。

いいじゃないか、嘘で綺麗に包ませてあげれば。おそらくそれが本人のアイデンティティの獲得や生きがいにつながっているのだから、という気持ちもある。それを嘘だと言うだけ野暮だと分かっている。

しかし、さらに面倒なことに、この感動を私に押し付けてくる人が居るのだ。お前もこの感動を共有しろと。面倒なので軽く流すと「やっかんでいる」と勘違いされた。なんてことだ。私は事実を知っているから、嘘に興醒めしているだけなのに。

ちょうど年末なのもあり『一杯のかけそば』の話が頭を過ぎる。私が幼かったころにブームとなり、親族がわざわざ書籍を取り寄せて涙ぐみながら朗読していた。実話という触れ込みであったこの物語は、後に創作であると指摘される。きっと親族を含め『一杯のかけそば』に感動していた人はショックを受けたことだろう。そう考えると、今回感動した人に真実を言って回る気にもならない。

というわけで私の心の中でだけ真実が蠢き、なんとも言えぬ気持ち悪さを感じているのであった。

「なんで私ばかり」と言いたくなりつつも、世の中には色んなことがあるから、決して「自分ばかり」だなんて発想は良くないとも思う。けれどなぜみんな自分の気持ちいいようにばかり動いて、人へのしわ寄せを考えないのだろう。もしや嘘を嘘とも思わずに、真実だと思い込むようになってしまったのだろうか。私はそんなことをしない!と強く思いつつも、人間は完璧ではない。自分をよく見せるために自然とそんなことをしている可能性も否定はできない。だとしたら生きるとはなんと醜く恐ろしいことか。

できるだけ真っ当に生きたい。嘘で美化されたものに加担したくない。詐欺みたいな感動をばら撒きたくない。今回のことに虚しさはあるけれど、仮に綺麗に包まれたとしても嘘は心の奥にあるドロドロとしたもの。いつか乾いてポロポロ剥がれ落ちるんじゃないかとも思う。