文化的生活の記録

「旅文学」の小さな本を作っています。

「させていただく」/自サイト作り

疲れると心が狭くなり他者の欠点が目につく……という自分の欠点は自覚している。ついついテレビに向かって「何それ」「無いじゃろ」などと言ってしまうのをやめたい。育った家でかつて見た老人と同じことをしている自分に腹が立ちつつ、結局やってしまうのをやめたい。山に囲まれた、人間よりも猪の方が多いような町で、自分の政治論や「昔は良かった」を主張する老人を見て心を冷たくしてきたというのに。

でも、思っていたものと違う日本語に出くわすと私は首を傾げざるを得ない。それが過剰な「させていただく」という言葉遣いだ。この言い回し、私も全く使わないわけではない。けれど過剰に、使う必要がない場面や何度もしつこく登場した際、私は激しく拒絶してしまう。

特に散見されるのが有名人による入籍の「ご報告」である。ブログのタイトルを決まって「ご報告」としているのも何なんだろう。敢えて何でもないご報告を期待したくなる。そこで登場する「結婚させていただきます/ました」という言葉遣いが私の納得いかないところである。
結婚というものは、そこまで他者にへりくだる必要性があるのだろうか。そういうわけでストレートに「結婚致しました」「入籍しました」などと書いている有名人には途端に好印象を持ってしまう。

結婚は両者(敢えて両性とは書くまい)の合意のもと、ある程度の覚悟はありつつも基本的に自由であって欲しいという私の思想がそう思わせているのかもしれないけど。

文法的に考えると「動詞」+「する」+「謙譲の表現」をクドく感じているのかもしれない。関西芸人さんがテレビで喋っているとき等に散見される「今度行かさしてもらいますわ」みたいな表現だ。「伺います」ではダメなのか?「行く」に「する」をなぜ足す?もしやどこかの方言が伝播したのだろうか。

そんなブログを書いて、載せていいのかな、傲慢かな、と思っているうちに8月も終わろうとしている。

秋の文学フリマ東京が開催されてもされなくても情勢を鑑みて辞退することになっても、そろそろ次の本作りを本格的に始めなければ。なのに、またしても表紙から手をつけてしまった。『ゴミ処理場の静と動』を作った時、表紙から作ったせいもある。あの時と違って明確に「こんな表紙にしたいのよ!」というのがないので、さっさと本文を書いたほうがいいのに。でも表紙作りは楽しい。

一方で「わたのはらさゆ」としての、ちゃんとしたサイトを作りたいと思って試行錯誤している。「インターネットでホームページを作る」という行為の懐かしさよ。”ジオシティーズ”なあの頃と違って無料サイトでもテンプレが充実しているが、より見た目を美しく…と思うと欲が出る。でもその見た目の美しさが文章作りにやる気を与える気がする。表紙作り然り。